共に手をたずさえて。

今年の3月ごろ・・湿疹は以前よりおさまっていたけど、膠原病?からかまだ左手足に違和感があって 体調が悪い日が続いていた。そこへ、ひとりの友人の死。
家の庭屋さんの娘さんCちゃん、バツイチ独身で長年過食に苦しみここ2年で拒食症に転じた。
Cちゃんとは去年の7月ごろ 連絡を取り合うようになり、メールのやりとりもした。 
その9月に拒食で救急車で入院、大腸がんが発覚
手術をしたけれど 散らばっていて、手遅れで
今年3月に亡くなった。 
余命が短いということは彼女には知らされなかった。もう十分、拒食で苦しんできた。辛い知らせを知ることはない0。と家族の判断だ。よかったと思う。ギリギリで踏ん張っていたから。



メールのやりとりを始めたころ、Cちゃんが突然家に来たことがあった。突然くるなんて、彼女も一杯一杯だったのだと思う。極度に痩せていて、私と同じくかなり老けてみえた。


その時すでに164センチ32キロ。
5月に退院したときは40kあったそうなのだが、
拒食の意志強固のダイエットで順調に痩せてしまうのだ
32キロ?と聞き、私はびっくりし、焦り過ぎ、「もうちょっと食べようよ。死んじゃうよ〜!」などと言ってしまった。
彼女はコーヒー飲んでいたのだが、20分滞在したぐらいで用があるからと帰ってしまった。


あー。拒食の人に「食べなよ」って言っちゃいけなかったのだよ・・わかってたのに。 
あまりにガリガリで、来てすぐに「ソファに横たわらせて」というほど体力が落ちてるようで、ついつい・・。
私の状況も説明開示するために私もハゲ頭は見せたのだが。


母は「あんたに何ができっこない。関わらずにいれば?
仕方ないでしょ。病院に入院しても拒食が治らないんだから。帰っちゃたしもう来ないんじゃない?あんたがベラベラ話すから。」と言った。


その時、拒食で障害3級手帳を所持。授産施設で月給2万の仕事してる。仕事は単純作業、賃金は安く、基礎3級じゃ年金も降りず 将来の見通しも立たない。
普通のバイトを探したいとその痩せ細った体で、バイトの探していた。

朝はキャベツとパン、昼はカップラーメン、夜は冷奴。
このまま食べないとまた、命も危ない。
もう拒食で二度も生死をさまよった。
生きる希望と未来・・って何。
「生きたい?死にたい?」
「死んでもいいかも・・」
「ダメ!私を置いていっちゃだめ!私は生きるから一緒に生きよう!」とメールしつつも
このまま拒食で、自然に旅立たせてあげた方がいいのかな・。
とも思った。
わかんなくなった。


知り合いの看護婦さんにきいてみたら、
拒食症の場合、死にたくないんだから救急車をぶだろう。本人に治す気がなきゃなおらない。「死にたいのなら死ねば」と突き放し、本人に自覚を促さなきゃだめとのこと。

でも死にたいんじゃなくて、
生きたいけど希望が見つからないから辛いんだよね。治す気がない、と言ってももはや脳内物質の問題だし。
どうしたらいいんだろう。


と、Nちゃんに相談のメールを送った。
Nちゃんは同じ学校だったのだけど
その時は知らず、友人を通して20代前半に知り合った友達。鍋パーティー、ディスコ、彼女と過ごした青春がそこにある。
30ちょい過ぎてからの私の長い闘病の間、
彼女は時折東京から電車に乗って何回かわざわざ
顔を見に来てくれたのだ。
無理しないで、具合がわるそうだったらすぐ帰るよ。といいながら。
たわいもない話をして、お茶を飲んで。


ありがたかった。
人はメリットのない人とは付き合わない。
だれしも一緒にいて楽しい人を好む。
病人とわざわざ会いに、それも 時を置いても連絡を取るなんて 酔狂な人は少ない。
容姿が変わっても、立ち上がれなくても友達でいてくれて、どれほど心の支えになったか。


メールを送ったのだが、その後すぐ自己解決した。

>自己解決しました。(*^_^*)。
私のままで、失敗もあるかもだけど寄り添う。自分の頭のハエも追えないのにと母は言うけど、
踏ん張るだけで精一杯な私だけど、目の前で流されて行きそうな彼女を見過ごすことはできないもの。ローブなら渡せる。
彼女に生きていこうよと言うことが
果たして幸せなのかは、わからないのが・。

とNにメールを送った。
Nちゃんは、「私は、そういう考え方をするオペラが友達でよかった」とメールをくれた。
母に「頭のハエもおえないくせに。まずは自分の病気を治せば」と否定された私を肯定してくれてうれしかった。


弱いからこそつながる必要がある。
世間は見捨てるから。見て見ないふりをするから。
弱ったものは、一人じゃどうしょもないからこそ、つながる必要があるのだ。一本の矢より2本の矢じゃないのかなあ?


確かに 母の言うとおり、まずは自分のあたまのハエを終えなのだろう。しかし、今にも溺れそうな彼女に、だれか手を伸ばしてるの?
もちろん家族は見守ってる。必死だ。
彼女は実は、陸上日本一もとったことがある選手。
そのころのアスリートは太るの厳禁。
一日何十キロと走りこむ、体力は必要だから食べなきゃいけないのだが、
太ったら、すぐに食事制限があったんだそうだ。
どうやら彼女の過食と拒食の原因の一旦はその時からのものらしい。
華やいだ経歴があればこそ、過食、離婚、そして拒食となって
友達ともだんだん疎遠になり、幼馴染とはそのまま付き合っていたようだけど、なかなか本音を語れる人もなく、
・・だからこそ私がだした自己紹介とともの、友達になってもらえないかな。の手紙にすぐに返事をくれたのだろう。


彼女が通院する日、こっそり私も病院にいった。
どうやら先生とうまくいってないらしく、病院慣れしてる私も一緒についていこうとおもったのだ。
黙っていったので彼女はびっくりしていたが喜んでくれた。 従姉妹ということで一緒に診察室にはいって
彼女が先生に訊きたかった質問を代りにした。ずうずうしいオペラ。
Nちゃんが私に会いにきてくれたように。
私もそうしたかったのだ。


そこから、彼女と私は、一層友達になった。
メールといっても、彼女と家族との「食べない」「食べろ」バトルとか、オペラ家の母娘喧嘩の愚痴とか
お互い栄養失調のため栄養剤のエンシュアリキッドの取り方とか。拒食でふらふらなのに昼のバイトのほかに夜のバイトも探してるとの求職してる話とか。
姪に走るの教えてあげてくれないかなあとか。
お互いの体調のことやら、たわいのない話も含めて。


9月中旬、
Cちゃんは布団上で意識朦朧してるところを母親が発見、救急車で搬送。体重26K。 
こんな体で、バイト探しをしていたんだよ・・・(涙)。

大学病院へ入院後、その後2か月は拒食を点滴治療するためベッド上で拘束されていた。
今時拘束なんてあるんだ・・と初めてしった。
面会も許されないとのことだった。

テレビの時間も携帯の時間も制限。
3時ごろから1時間の自由時間があった。
いい子にしてれば、制限を解いてくれるという拒食の治療のひとつの方法らしかった。
そんなんじゃ根本は解決しないのに。



Cちゃんはメールをくれた。
私もメールをした。
Cちゃんは私のメールが楽しみなの。といってくれていた。
あまりに「ありがとう」というから「あまりありがとうって言わないでお互い様なんだから」と答えた。



10月にこっそり食べたアイスクリームで腸閉塞を起こし、検査、大腸がん発覚。手術。 結果、手遅れで余命2か月〜半年と、弟さんから連絡があった。
本人にはとりきれなかった。拒食治療後、体重がもどってから治療と伝えたそうだ。
余命二か月ときいてびっくりした。
11月下旬、面会制限もとけたので、会いにでかけた。
その時Cちゃんはベッドの上で点滴やら心拍数やらの機械に囲まれていた。声も細く・・体力もなく歩けず・・
それでもベッドの上におきあがり、歓迎してくれた。



その後転院後、少し食べれるようになり、
「治して一緒にカフェめぐり。もう一度一緒に青春しよう。」と合言葉にしていた。
手術後、だんだん食欲がでて、3食食べるようになっていた。手術ができるように体重を増やしたいとの一身だったと思う。食べてるのになかなか体重が増えないといっていた。それでも救急車で運ばれたときは26kだったのに32kまで回復していたのだ。すごい。
年末年始は外泊許可。
その時電話したら 出会ったころよりもずーっと元気な声だった。久しぶりにコンビニにでかけ、大好きなスイーツを買い、家族と一緒に年末年始をすごした。
このまま家にいたい。病院に帰りたくないといいながら
病院へもどった。



1月下旬に電車とバスを乗り継いで、
会いに行ったときは元気を回復していたように見えた。
大粒のいちご甘王を買い、とろけるプリンをもって 会いに行った。
ちょうどリハビリから帰ってきたところ。
古いけど清潔で明るい病棟の個室。
11月は歩けずベッドの上だったのに、今回はすたすた歩けていた。
以前より元気で プリンたべながらおしゃべりをした。





末期の大腸がん。2月中旬大雪のあとぐらいからかなり苦しんだ。
たべれないようになり、おなかがきりきりと痛み。
「痛いよ。。」と何度もメールが来た。


大雪も降り、交通もマヒ。
そのうえ私の体調もよくなかったので会いにいけなかった。でもなんとしてでももう一度会いにいけばよかった。

私はどうすることもできず、メールでつらさを聴くことしかできず・・。

また先の知り合いの看護婦さんに電話。「ああ、大腸がんがあったのか・・だから拒食もそのせいだったのかも」と言った。
その看護婦さん、過去記事に書いたことがある。
自分も生死をさまよう大病をしたのに 上から目線にならず、人に寄り添う看護婦さんだ。
私もその時彼女の言葉と態度に救われた。


「もしよかったら、いっしょにその病院に行ってみようか」とも提案してくれた。


まずは今はいろんな緩和ケアの薬があるとののことをきき、そこの病院で処方してもらうようにと医師に伝えてと彼女に電話した。
モルヒネはね、痛みが治まればたべれるようになるから
そのためだって」といいながら。

・・会いに行けばよかったと後悔が残る。



なくなる3日前、電話したら通じて30分ほど
痛み止めの話と病状の話、よくなったらカフェめぐりしようね。 お互い厳しい環境だけどさ、2人だったらなんとかなるじゃん。一緒に花火にもいこうね と。
Cちゃんは四月になったら外泊するから、お花見に行こう!と
言ったのだった。

3月、桜を見ずに彼女は旅立った。

ああ、もう苦しまなくてすむんだ・・。と思った。

思えばいつもいつも彼女は私を励ましてくれたのだった。
私の調子が悪いとき、「オペラちゃんファイト!」「オペラちゃんのメールが楽しみ」
自分が大変なのに・・。

Cちゃんはいつも私を支えてくれていたのだ。
濁流にのみこまれないように、私を支えてくれていたのは彼女だったのだ。

彼女の弟さんがくれた、形見。
シンデレラのガラスの靴。が パソコンのそばに置いてある。

このことは書こうかどうか、迷った。
はたして書いていいのかどうか迷った。
でも書くことにした。

私は彼女を尊敬している。
いつもはげましてくれてありがとう。
友達になれてよかった。
会えてよかった。 


そう彼女に伝えたいから。