穀潰し

涙がとまらない。

働けてない自分、稼ぎのない自分は

穀潰しなのではないかと。


日々、人々に・・攻められているように感じる。
実際せめられることはなくとも、
母の友人とかが、
家にかえって「あのこ、アトピーでも働いてる人いるのに、なになまけてるの」とでもいっていそうな。。。

実際、母の友人が「うちのヨメもアトピーよ。でもパートいってる。」っといわれたことがあるが、彼女のアトピーは、ただの肌荒れだけど。

どうやって生きていけばいいのだろう。


なみだがとまらない。


数年前、症状がひどいときに詠んだ。


ごくつぶし、生きる価値なし、逝ってよし。

自分にこんなこといっちゃいけないよね。






生きる価値ってなんだろう。


価値じゃなくて、意味。


耳がきこえず、盲目の福島先生が、

絶望=苦悩ー意味ではなく。

絶望+意味=苦悩。絶望することに意味をみいだせば、もはや絶望ではない。

>苦悩があるから、しんどいから不幸だって簡単に考えるのではなくて、意味をそこに見いださせれば、それは絶望ではない。新しい豊かな人生が見つかるかも分からないっていうふうに



>そもそも障害とは、近代になって生み出された概念だと、福島は主張する。産業革命のころ、社会は大量生産を可能にする均質な労働力を求めた。それは一定程度の労働に耐えうる身体条件を備えた均質な労働者を必要とする社会でもあった。そこからこぼれ落ちる生産能力の低い人間を “障害者”とひとくくりにしたのだと福島は言う。
障害と言う概念は、近代に生まれた。産業革命の頃、社会は大量生産を可能にする均質な労働力を必要とした。
その規格からはみ出す人、一定の身体的な条件に満たない人を障害と位置づけてきた。
障害者は、社会が能力によって人を振り分けている仕組みがすごく凝縮したカタチで現れている。そうゆう集団といえる。と、福島さんは言う。





アトピーは障害ではない。目も見える、耳も聞こえる、動ける、歩ける。
しかし、今の社会が求めている、「美醜や清潔感という規格」からははずれている。
粉、汁皮などがでるからね。



アトピーが重いと(今は以前よりはずーっといいけど)、
体も見た目も健康人な人、とおなじように社会生活を送るのは難しい。



だけど、世の中には目が見えなかったり歩けなかったり、動けない人、いろんな障害を抱えてる人がいっぱいいるんだよね。それを抱えて生きている。


なにやってるんだろ・・私。たかがアトピーじゃん。ひらきなおれよ。
開き直りたくてもひらきなおれないのは、一応女だから(笑)





それにしても福島先生は失聴、全盲ろうの状態で、よく絶望を乗り越えたなあ。

いつか講演を聴きに行きたいな。



講演を聴きに行きたい・・これもひとつの希望の芽生えね。



それにしても涙。

この欝状態は・・


もうすぐ生理にちがいない!(笑)


ちょっと遅れている生理が、明日ぐらいにきそうだ。もうすぐ。